2015年10月8日木曜日

業界としてのリスク管理

今夜も前日の続きを書きますか。ラグビー日本の勝利から始まった「みんなの思い」。なかなか終りが見えません(笑)。昨日は理学療法士の臨床実習に絡めて書いたんですが、書きながら、学生が実習で心身共に疲れ果てるまで宿題を課されるのは、やはり理学療法士のリスク意識が薄いということなんだろうなと思ったわけです。学校に通っている分には基本、学生自身の安全を考えるだけで良いですが、臨床実習だと患者の安全にも関わってきますよね。僕は思うんだけど、患者を直接診る時のリスク管理はしっかり出来ても、そういった事故なりサービスの低下に繋がりそうな誘因を排除するという観点から考える理学療法士って少ないんですよね。昨日もちらっと触れたけど、死人が出るような実習の背後には構造上(みんなの思い)の問題があるわけで、業界としてのリスク管理が出来ていないということなのかもしれない。確かに学生が一定レベルに達しないと就職しても患者を診れないということではあるのだけれど、数ヶ月の臨床実習で詰め込んで解決できることにも限界があるように思うんですよね。

2015年10月7日水曜日

暗黙の前提

さあ、今夜は何を書こうかな。あまり時間がないのでささっと書けるものをと思ったのだけど、一昨夜からの流れを継いで「みんなの思い」臨床実習編。理学療法士の臨床実習って普通、必要以上にハードなんですよ。中には実習中に自殺する人もいるくらいハードです。あ、コレ、誇張じゃないですから。ホントの話です。現場の実務を学びに行ってるのにレポート課題などで自宅学習に膨大な時間がかかったりして寝る暇もないことも多々あります。僕自身も学生時の実習では結構徹夜でレポート書いたりしてましたね。今から考えるとめちゃリスキーなことやってたなって思います。市バスの運転手が仕事の前の晩、職場の資料作成で一睡もしてないのと基本的には同じ状況です。一晩くらいならまだ何とかなるかもしれないですが、これが何日も続くと誰が見てもヤバいでしょ。こういうことって、課題を出す指導者だけに問題があるのではなくって、「実習ってそういうものだ」という全体的な空気、つまり暗黙の前提があるわけですよ。実際には実習で必死に書き物をしたところでうさぎ跳びをしてるに過ぎない場合も多々あると思うのですが、学生が強い痛みに耐えてないとどうも十分に学んでないように思えてくるのかもしれません。え?誰がそう思うのかって? それは学生を含めたみんなですよ。ま、最近ではこういったことの反省やら反動やらで異常にソフトな実習も徐々に増えてきてる気配はあるけど、できれば左右に振り切れることなく、至適な平衡点を見つけられると良いですね。

2015年10月6日火曜日

とかく根拠の薄いリハビリの世界で

昨夜は「みんなの思い」って怖いよねという類いの話をスポーツに絡めてしたんですが、リハビリも今はどうかは分からないけど僕が臨床してた頃(平成初頭)は「痛いのが良いんだ」なんて言いながらやってる人たくさんいましたね。医者やセラピストを含めて。。。当時のリハビリって「患者のやる気次第」みたいな空気があって、医者による処置が終わりその後良くなっていかないのは患者が怠けているからだみたいな感じやったですね。だから痛みに耐えて頑張ることはそれが本当に回復に繫がることなのかどうかはさておき象徴的に「善いこと」だったんだろうと思います。でも本当に痛い方が良いんですかね? 痛みに限ったことではないけれど、とかく根拠の薄いリハビリの世界でみんなが同じことを言っている場合には少しそのことに注意したいと思います。

2015年10月4日日曜日

仲間はずれ

ラグビー勝ったみたいですね。サッカーやゴルフやテニスもそうだけど、日本のチームや個人が世界の強豪と対等に戦える時代になってきているように思います。練習量とかは昔の選手たちと大して変わらないというか、むしろ昔の方がいろんな面でストイックなところがあったんじゃないかと想像するけど、結果が全然違いますよね。少なくとも30年くらい前までは練習中に水を飲んだら身体がバテるとか言って我慢してたように思う。うさぎ跳びも膝を壊すまでやってた時代あるもんね。「それが良い」とみんなが思うことって怖い。そうなると、実際に正しいのか適切なのか十分に考えずに、みんなが思っている(常識)通りにやらなくてはいけないと考える人たちがたくさん出てくるわけだから。判断の基準は「仲間はずれ」になるかどうかということです。つまり、大多数の人たちにとっては真実であるかどうかということよりも多数派であるかどうかが大事であるということ。。。おっと、話が随分逸れてしまった。日本のスポーツの話。戦術面でのノウハウの蓄積もあるんでしょうが、メンタルの変化もあるんだろう。今風に言えば、競技力とはまた別の、国際舞台における選手のセルフイメージが上がってきているのかもしれない。戦後の日本人の心の進化を理解する鍵がここらにあるかもしれません。

2015年10月3日土曜日

言ってること分かりますか?

今日は朝から院生とラボミーティング。LMというのは研究室のメンバーと意見交換する集まりです。サイエンス系のラボでは週1回とか定期的にやってるところがほとんどだと思います。MITでは幾つかのラボに所属しましたが、メンバーが順繰りで最近の研究進捗を20〜30分プレゼンするところもあれば、みんなが簡単に一言づつ近況報告して終わりというとこもありましたね。スタイルはボス次第なんですよ。僕の研究室はまだ人数が少ないのでめちゃ実質的な話ができます。プレゼンは一切なし。いきなりディスカッションから入っていきます。今日は来年サッポロで開催される理学療法士協会の全国学会に向けて軽く打合せしました。今年東京で発表したものの続編を出す予定ですが、この11月にも四国の学会で一つ発表することになっていて、ここらで一度それらのデータをまとめた論文を書いてみようと思ってます。年末に向けてのメインテーマになりそうです。データが揃ったと言っても本当はそこからが勝負です。結局のところ、見てるものは同じでもそれをどう意味付けするかでその同じものが全く違ったものになるわけです。言ってること分かりますか? それにしても、理学療法の世界というのは内容を十分に理解することもなくスゴいと思う人たちが多いようなんですが、うちもそういう人々の盲信を引きつけられるような力を持つ研究室にこれからなっていかなきゃいけないなと思いますね。言ってること分かりますか?

疑わしいんじゃないの?

今日もブログを書き始めるのが0時を過ぎてしまった。もっと早くやるべきことを済ませて23時までにはお寝んねしたいと思うのだけど。。。さて、何があったというわけではないんですが、先日、ある人と「人間力」って何だ?なんて話をした。リハビリの世界でも割と好んで使われる言葉じゃないかと思う。仕事で人を採用する時なんかも「人間性」が重要な評価項目になったりするようですよ。僕、若い頃に、ある人事に絡んである人の「人間性」について意見を求められたことがあるんだけど、その時うまく答えられなかったんですよね。だって定義するの難しいじゃないですか。「良いと思います」なんて答えてもいったい何が良いのかよく分かんないしね。たぶん、人当たりの良さというか、人望の厚さというか、そういう感じのことを意味しているのだと思うのだけど、何を人間の価値とするかでその構成要素は大きく変わって来るわけだし、人によって価値観はいろいろなわけだから、ま、とても曖昧な言葉だと思います。僕からすれば、そんなことヒアリングしてるその人自身の「人間性」がかなり疑わしいんじゃないの?と思ったことを覚えてますね(笑)。「品性」とかもそうだけど、こういう言葉って、それを使う人がちゃんと定義するなり例示するなりして使わないと日本語通じないんじゃないかと思うんだけど、そんなことを考える人はきっと変わった人なんだろう。

2015年10月1日木曜日

ごわごわして

今日から10月。神戸は雨が降ったりやんだりで風の強い日でした。さて、昨日、Facebook の方に蜜柑(みかん)の写真をアップしたんですがご覧になりましたか?

1年ほど前に一つの実験をしました。

同じような蜜柑を三つ用意して、それぞれ蓋のない小さなタッパーに入れます。

二つのタッパーの表面には「大好き」または「大嫌い」のラベルを貼ります。残りの一つには何も貼りません。

その後、室温で3週間ほど放置し、蜜柑の外観が変化していく様子を観察するだけなのですが、この期間に家族全員が毎日少なくとも一回それぞれの蜜柑に感情を込めて声かけしました。

1)「大好き」のラベルが貼られた蜜柑には、「好きだよ」とか「愛してる」とか「今日もキレイだね」とか「素敵!」といった言葉をかけます。もちろんこの時は笑顔です。

2)「大嫌い」のラベルが貼られた蜜柑には、「お前なんか嫌いじゃ !!!」「向こう行け!」「うざっ!」といった言葉を畳みかけます。

3)無視する蜜柑には見向きもしません。

3週間後、結果は写真の通りになったのですが、




「大嫌い」の蜜柑よりも「無視」された蜜柑の方が外皮がごわごわして、時間経過による傷みが激しかったです。

今回は一度(一組)しか実験をしなかったのでこの結果が再現されるかどうかは分かりませんが、偶然に起こるとしてもその確率は(1/3)の3乗で約3.7%。

初回の実験で5%にも満たない事象が都合良く起こるとは考えにくいんですよね。*p < .05 です。

食べ物に人間の心が通じるチャネルがあるのかどうかは現代の科学をもってしても不明ですが、我々がまだ目に見える形でアイデンティファイ(identify)できていない心的エネルギーが人の身体から放出され、周りの生命体に(ひょっとするとその他あらゆる物にも)影響を及ぼしている可能性を想像させる興味深い実験結果です。